12-25

ツイッターに何か書こうと思うけど書けないということを繰り返す。

検閲の空気というか、そういうものが内面化してしまっている感じだ。

差別とか多様性とか、そういうものをあまり意識せず、言及せずに済んだゼロ年代の空気とはずいぶん違ってしまった。枕詞とか、エクスキューズ的な言葉とか、そういうものが多すぎる。「させていただく」の多用も同じことだ。

・春からカウンセリングに通い始めて、半年以上経つ。でもなかなか回復しないなあ、と思う。もちろん、効果を少しは感じているから続けているわけだけど。

嫌な記憶、経験、そういうネガティブなことをある程度話す。それを聞いてもらう、受け止めてもらう、ということによって、少し楽になる、ということは、確かにあるのかもしれないと感じた。

カウンセリングに行ってみようかと思った理由のひとつは、河合隼雄の本を読んで箱庭療法に興味を持ったことだった。だけど実際にやってみたら、想像していたよりも結構難しかった。けれども、何かに興味を持つことはよいことだ。

それなりに長く生きて、何かを好きになったり、興味を持つことは、やっぱり大事なことだと思うようになった。好きになった理由を説明しても、上手く言えなかったり、合理的なものではなかったりする。つまり、そこには大きな謎がある。その謎は、可能性だと言ってもいいのではないか。

・千葉雅也のツイッターを見ていると、40代になって、筋トレをしたり、絵を描いたりしているみたいだ。もし自分だったら、それなりの年齢になって新しいことを初めても、たいしたところまでいけないだろう、と思ってしまいそうだ。実際に、アメリカの映画や野球をもっと知るためには英語が出来たらいいよなと思いつつも、今も勉強していない。けれども千葉さんはいろいろなことをやってしまう。その陽気さとか明るさとか、そういうのは自分には欠けているものだなと思い、少しは見習いたい。

・年を重ねても、人は成長すると思う。だけど自分の場合は、その速度が遅いなと思う。そのうちに体力、気力の衰えがやってきて、一日に出来ることが若い時よりも減る。それでも自分なりのペースでやっていくしかない。

現代詩手帖の年鑑をこの数年は毎年読んでいるので今年のものも読んでるけど、あまり関心の惹かれるものがなかった。詩だけじゃなくて、いろんなジャンルでこのところはそんな感じだ。どんどん嫌な時代になっていく。人間がつまらなくなっていく。その中で自分なりにどう生きるか、何か抵抗できるのか、それを来年も考えていく。

 

 

5-12

・書店がつまらなくなり、現実から逃げるとか、一時避難するための場所だったのが、その要素が薄くなっていくのはいろいろとつらいものがある。人間も社会もつまらなく、息苦しくなっていき、この流れは当面変わりそうもない。

・國分・千葉対談の「言語が消滅する前に」で否定性とともに生きることについて語られていた。傷つけられたとか加害されたということがよく言われる世の中になったけど、本当にそれでいいのか。清潔すぎる環境で育ったら病気に弱くなった、ということが言われたりするけど、それと同じように、浅い傷を受けたことさえ被害者として主張するばっかりになったら、弱い人間、ゆがんだ人間になっていく可能性はないのか。他者や社会に傷つけられながらも、その経験を経てもがいたり試行錯誤して生きていくことで人は成長していくという面もあるのでは。

・カウンセリングに行って、なかなか喋れない、うまく言葉が出てこなくなって、沈黙の時間があったりした。そうなって、自分は思っていたよりもいまは調子が悪いのだな、と気付く。

・状況を改善しようとか、今後のために頑張ろうと思うのと、いつまで続ければいいんだろう、自分の人生がいまいちなまま続きそうなのだとしたらどの時点で見切りをつければいいのだろう、という思いが両方あり、それが行ったり来たりする。若い時に死んでいた方がよかったのではと思うくらいには、30代の人生は苦しかった。

 

5-6

・同じマンションに住む、ベビーカーに子どもを乗せた若い夫婦と

乗り合わせる。自分のことと比較すると残酷な対比だなと思う。

・4月からカウンセリングに行くようになった。退職して1年以上経っても、

就職活動もしていないし就労支援のようなところも行っていない。

信頼できる人がいなくなって、家族以外の人と話す機会の少ない生活は

とても閉塞感や手詰まり感が強い。30代半ばという年齢で何をやっているのだろう。

・多様性とか正しさとか言ってる世の中だけど、属性によってものを見て考えて、

実際に社会のなかで物事が動くときも属性によって動いていく。

発達障害支援、障害者手帳を取得しているか否か、ひきこもりや不登校という

カテゴリ、年齢区分、等々。その一方で共同体とか中間集団と言われるものは

一昔前よりも衰退していると言われる。とても貧しく、つまらない社会に

生きている。属性からこぼれ落ちる、はみ出すものはほとんど無視されている。

・音楽はほとんどジャズを聴く生活だったけど、最近はエレクトロとかアンビエント

と言われるものを聴き始めた。まだ初心者でどれほど続くかわからないけど、

新しいものを開拓しようと思えるのはたぶんいいことなのだと思う。

長田弘の詩を読んで、少しグッと来て泣きそうになる。亡くなってから7年経った

人で、今になって関心を持つようになった。物事の理解や気づきは遅れてやってくる

ことが多い。だから、出版された本が短い期間で品切れになってしまう今の出版界は

やっぱり良くないと思う。本の値段も高くなる一方だし、何とかならないものか。

・自分なりにもがいたり試行錯誤したりしていくと、何らかのものは得られると、

この年まで生きて思う。だけどそれは亀の歩みのこともあるので、他者と比較すると

落ち込むことが多いので比較しないようにする。

 

一年を振り返る

あっという間に一年が終わる。

今年の春ごろから、Twitterが以前よりもつまらない、息苦しいという感じが

つよくなって、見る頻度を減らしたというか、自然と減った。

6,7月頃は、社会復帰のリハビリみたいなものに参加していたが、あまり

いい経験をしているとも、楽しいとも思えず、途中でやめてしまった。

客観的にも主観的にも、今年はよくなかった。脱ヒキする前の生活に

似たような感じになってしまったと思うときもある。

会社を辞めるときには、努力や苦労はあまり報われないんだな、と思いながら

辞めていったのだが、いろいろと嫌なことが積み重なっていって、

ダメージを思っていたよりも受けていて、エネルギーの充電とか、

そういうことのために、この1年以上の時間が必要だったのだろうか、

と考えたりするけど、実際のところはよくわからない。

経済的余裕のない人は、生活保護を受けない限りは、ずっと無職で居続けることは

出来ない。充電する時間すらない人たちもいるなかで、うしろめたさみたいな

ものもある。

書店で本を物色し、映画を観て、通院をして、といういくつかの行動を

ずっとループしていて、いつの間にか1年が終わる、色彩の少ない生活をしている。

神も仏もない、何の救いもない。精神科の先生と就労支援の人がいなくなって、

信頼できる人がいなくなるとずいぶんダメージを受ける。だけど別れというのは

当たり前にあるのが現実なので、乗り越えるしかない。

 

 

10-8

30代は時間が過ぎるのが早く、退職して1年、今年も残り3カ月を切る。

前回の記事で書いた社会復帰のリハビリみたいなことも上手くいかず、

気分が晴れない日々が最近は続いている。

ツイッターやブログをフォローしている人の文章を読んで、今の社会についてとか、

いろんなことを分析して、モヤモヤしているものが言語化されていて、

頭が整理されたような気分になることもあり、それはいいのだけど、

最近思うことは、そういうものばかり読んでいても仕方がないなとか、

なんとなく閉塞感を感じる。そういうことだけではなく、個人的な夢とか、

ファンタジーとか、あるいは妄想と言ってもいいかもしれないが、そういうものが

人が生きていくうえでは必要なのかなと思う。

 

最近ツイッターで「発達障害は親に原因はないということは難しくなってきている」

というツイートを読んで、ちょっとショックを受けた。親ガチャという言葉が

拡がったのもそうだけど、生物学的なことも含めて現実の残酷さみたいなものが

多くの人に感じられているとしか思えず、「ジョーカー」のような結構シリアスな

映画が大ヒットするのも、社会の厳しさがかなり深いレベルに行っていることを

反映しているように思う。しかし、そのような現実が映画とか、あるいは文学でも

そのようなものがあるのだろうけど、そういう声がポリコレ的な知識人とか

出版業界の人には届かないまま終わっているし、それは当分続くだろう。

私は本当に今の時代が嫌いだし、息苦しさを感じる。

7-8

時間が過ぎるのが早く、もう今年も半分終わった。

最近になって、ようやく社会参加のリハビリみたいなことをするようになった。

ある程度回復するまで、半年以上かかった、長かった。

とは言っても、そんなに積極的な気持ちで行動できたわけじゃない。

家族以外の人と話さない生活が長く続くと気分的に閉塞感が強くなってきて、

このままの生活を続けるのも良くないと思ったから行動した、という感じだ。

 

映画が好きなのでキネマ旬報を読んだり、詩に関心があるので現代詩手帖を読んだり

するけど、どちらも、特集のラインナップとか、実際に内容を読んでも、あまり

面白くないなと感じることが増えた。政治的な正しさとか、属性でしかものを

考えられていないものが評価されていて、これは私の読みたいものではないなと思う。

この数年でそういう世の中への嫌悪感や不快感がだいぶ大きくなった。

今の時代は嫌な時代だと思いながら生きていくことは、幸せではないし、

愉快でもない。

 

35歳になり、喜怒哀楽、感情の振れ幅が小さくなり、良くも悪くも若い時よりは

落ち着いている感じになった。そのかわりに、虚無感とか無力感が大きくなっている。

このような現実を生きているのに、キラキラした言葉やファッションを見ていると、

なんだかくらくらする。先日、女性誌とかファッション誌と言われる雑誌で占いの

特集があったので読んだが、広告とかファッションがスタイリッシュだったり

キラキラしていたり、こんなものを撮影して何になるのだろう、自分は

何でこんなものを見ているのだろうと、変な気持ちになった。

何というか、もう精神的にかなり荒廃しているような、砂漠みたいな感じになって

きている。人間の汚れたところがずいぶん可視化されるようになっているのに、

ポリコレ的な言説が以前より広まっているのはどういうことなんだろう。

 生きていることに飽きているというか、驚くようなことが減っている。

35歳になったとき、こんなふうな人生、生活を生きているとは思わなかった。

29歳で脱ヒキしたときは、漠然と、未来は明るいと思っていた。

嫌なこと、思うようにいかなかったことが、ずいぶんあった。

いまは、惰性で生きている、ただ何となく生きているだけだ。

日々のルーティンをくり返すなかで、本や映画で時々驚くようなことや

よろこびを感じるようなことがある。退職してからの生活は、よろこびとか

うれしさのようなものを感じることは、それしかなかった。

まあでも、それすらもない生活よりは、いくらかマシなのだろう。

12-27

2020年も終わり。

今年は何と言っても会社を辞めたことがいちばん大きな出来事だった。

脱ヒキして5年だけど、この3年くらいは、人との関わりで嫌な思いをすることが

たくさんあった。それに対していいことはあまりなく、もう少しで

恋愛が成就するかもしれないということもあったが、成就せずに終わった。

いつの間にか34歳になり、若いころから名前を知っている人の訃報に接することが

珍しくない年齢になった。

無職になって、働く前の生活とそんなに変わっていない。映画を見たり本を

読むことで時間が過ぎる。ただ以前と違うのは、疲れがいまだに残っていて、

横になって休む時間が毎日ある程度あり、そのぶん一日あたりで趣味のことに

つかう時間が少なくなり、思うように捗らないと感じることもよくある。

 

正直、この年齢でいまだに不全感や無力感を感じる人生を生きているとは、

予想できないことだった。病気の治療がある程度上手くいき脱ヒキしたときは、

世の中はそれなりにまともなものだろうと勝手に思っていた。

でもそれは違った。この社会や人間はよいものではなかった。

社会や他者との関わりで大きなダメージを受け、それでも金を得るためには

働かなくてはいけない。何か特別な才能、能力があればクリエイターのような

生き方もできるかもしれないが、多くの人はそうではない。

この社会はよいものではないと経験として知っているのに、それでもまた

社会参加をしなくてはいけない。生きる屍として生きるしかないのか。

 

もうあまり、来年はまた頑張ろうと思えるような気分ではない。いろんなことを

知ってしまった。ツイッターをはじめてそんなに立たない頃に少しやり取りした人が、

その人はがんで闘病していたのだが、九月に更新して以降ブログもツイッター

止まっており、もう亡くなってしまったのかもしれない。その人以外にも、

そういう人がいた。

様々な死や不幸があり、そういうことがないかのように社会は回り、

ポリコレ的言説が声高に主張される。わかりやすい弱者はメディアや学問で

扱われるが、そうでない弱者は透明な存在として処理される。

自分の経験も含めて、社会にはあまり期待していない。

そういう状況の中でどう生きてったらいいか、そんなに簡単に答えが出るわけはない。