9-10

復職して4カ月くらい経ったけど、相変わらず欠勤とか遅刻が多い。

週30時間労働さえ私には無理なのかもしれないと日々思っている。

支援者の人も痒いところに手が届かないような、あまり話をしてもらくにならない。

前の人が子供が出来たから交代することになったわけだけど、誰かが幸福になると

誰かに不幸になる、しわ寄せがくるみたいなことを最近は良く思う。世界の幸福や運の

総量が決まっているのだとすれば、特定の人、集団にそれが多く行けばその分

歪みも大きくなる。今の世界はそうなっている。

 

この間夜の繁華街で食事会みたいなのがあったけど、あまり楽しくなかった。

リア充的なことはもういいやと思った。離人症的な、現実の物事に対して

距離がある、なにか入り込めない感じがこのところずっとある。

世の中とか人間の嫌なところを経験しすぎてしまい、幸せなことがそれに比較して

少ないのでたぶんこんな感じになってしまったのだと思う。

綺麗事とか耳障りのいい言葉に対する嫌悪感が年を重ねるたびに大きくなっていった。

物事を率直に、正直に語る人の方が本当はやさしいのだと痛感する人生を送った。

死ぬまでに何かやりたいことはと考えて、吉本隆明にオマージュを捧げる

みたいなことが出来れば理想だと思ったけど、それ以外のことはあまり

浮かばなかった。たぶんもう余生になっている。

加齢による生理的なものの変化、時間感覚の変化は経験しないとわからないし、

それは否応なく迫ってくる。

自分の欲望とか何がしたいかとか、自分自身を理解することがいちばん大切であり

なおかつ困難なことだという平凡な結論でとりあえず終わり。

 

 

7-12

支援者の人と話す。自分の意見を押し付けたり上から目線みたいなものが

うっすらと見え隠れする。表面上はそうではない雰囲気をまとっているから

余計に嫌だなと思う。こんなことをこの3年くらい何度もくり返している。

人間は賢くない、嫌な奴が多すぎる。こんな経験は全くする必要がない、

人格が歪んでしまうだけだ。

 

そういう嫌なことがあると、今私はイライラしている、怒っていると気づくように

する、という仏教的な方法は、私には結構役に立った。自意識の暴走を

防ぐ技術のようなものだと思った。自意識をなるべく無くすようにして、

自分の状態を観察する。それを感じて、言葉とか意味付けはする必要が

ないと思いながらただ見る。

 

仕事についてはもうやめてもいいと思っているが、まだやっていない対処の仕方

みたいなのをやってもうまくいかなかったら多分やめる。

私の人生がこうなっているのは、それは自分で選んだことではないけど、

気が付いたら、いつの間にかそうなっていたというものだ。そして

そのような現実に適応できるかできないかということでしかない、優れた能力の

ない人間には。

「ぼくにとって重要な問題は、ぼくふさわしい現実を生きることなのだ」

というコクトーの言葉を思い出しながら生きている。

 

 

 

5-23

ナルシシズムとか作為みたいなものはいやだと思う。でもその感覚が

強くなりすぎると、ほとんど何も言えなくなってしまう。何事もバランスが

大事という平凡な真理。

 

もうすぐいまの会社に入社して1年になる。振り返ると、いいことはあまり

なかったなあと思う。つらいことはありすぎたし、給料も低かった。

今の時代の格差について、過去と比べてどうなのか、客観的に見てどうなのか、

私は知らないけど、ほんとに狂った世の中だと思う。

誰でもできるような仕事は安い給料で、インフラのようなものとしての価値が

ほとんど認められていないのだと思った。それは競争を勝ち抜いたものが

多くの富を得るというこの社会の価値観が反映されているからだ。

 

今まであったことは変えられない、解釈が変わるだけだと思う。

若くして両親を亡くした人が中卒か高卒で働いて、その職場で結婚相手と

出会ったから、その人は両親が健在ならすぐに働くことはなかっただろうから、

彼女は両親がいないことを前向きにとらえられるようになった、というエピソードを

本で読んだ。過去が変えられるということはそういうことなのだと思った。

事実は変わらない、その解釈は現在の自分がして、それは時間とともに移り変わる

から変わっていく、というふうに理解した。

 

今までの人生はこういうふうに過ごした、時間がたっていったという事実は

変わらない。最近誕生日だったせいか、その事実とか時間の重みを感じて

苦しい。この現実には救いみたいなものはないということは、経験として、

皮膚感覚として私は感じた。20代の時にはそんな考えを持ったことはなかった。

30代になってあるときにそう思ってから、世の中の夢、理想、キラキラしたもの、

そういうものがほとんど全部うそに、ニセモノに見えるようになった。

それはもちろん私にとってということであって、べつに多くの人が勘違いしている

みたいな話じゃない。

 

というわけでだいぶ憂鬱な感じだけど、これからどう生きていくのか、

途方に暮れる。似たようなことをくり返すうちにどんどん時間が過ぎてしまう。

 

 

 

3-31

診断書をもらってきた。

隣の奴がずっと貧乏ゆすりをしている映像がくり返し残像のようにつきまとって

再生されたり、不快な感覚に襲われたりする。

頭痛とか抑うつだとか言う言葉では言い表せない具合の悪さがある。

それで早退したり休んだりした日があったが、それが好きな人の最後の出勤日

だったようで、話をする機会を逃したまま終わった。

 

手取り10万を超えたのはたぶん一回だけだった。

自分では選択できない環境、報われるとは限らない努力や苦労、

この世の中はあまりにもバランスが悪い、と思ったけど、じつは

そんなふうに思っている人間の方が少数派なんだと思った、

だから変わらないのだ。

 

調子が悪くなると、映画を見たり本を読んだりして、時間が経つと回復する、

そしてまた調子が悪くなることをいつまでもくり返す。

なにか幸運な出来事も起こらないまま、時間が過ぎて、人として衰えていく、

ぐるぐる回っているだけだ。

経済的成功者になる可能性もほとんどゼロだから、あとは自分の欲望とか

目標をしっかりと見きわめて、それに対して行動とか普段の生活をしっかりすること

しかないんじゃないかと思った。

 

3-9

頭痛、頭が重い感じがなかなか消えない。休みの日にベッドに横になって

2,3時間休んで、映画を見たり本を読もうとしてもだるくてできない、

そんなふうに時間が過ぎていく。くすりを変えたら少しよくなってきたけど。

 

就職して9か月くらい。いいことはあまりなく、いやなことはいろいろとあった。

仕事とはいやなもので、それと引き換えにお金を得ているというのが常識的な見方に

なっているけど、給料も最低賃金みたいなものだ。

満員電車は疲れるし、乗り換えるときの駅の通路はいつまでたっても工事中で

狭くなっているままだ。そのなかを大勢の人が歩いているとき、いつも

この世の中は狂っていると思う。こんな狭い空間に大勢の人間がいて、

なにかいやなものが空気に漂っているような感じがする。

 

会社にはいろんな人間がいてそれを見たり経験をすることは社会勉強になった

とは言えるが、それはほんとうに経験する必要があるのだろうか、と思うことも

あった。この社会では、ダメージに耐えられることが社会人の条件になってる

みたいに思われた。

 

不安とか弱いところをついて人をコントロールしようとする人は、世の中に

意外といるのかもしれない。人間の支配欲の醜さをこれ以上見たくない。

 

12月に書いた気が利く人が今月いっぱいで辞めるという話が聞こえてきた。

その人がいなくなったら、ほとんどいいこともなくなってしまうんじゃないか。

仕事はやめてもいいし、仕事をしているからえらいということはない。

仕事を辞めた方が状況がいい方に変わると思ったらそうすると思うけど、

いまはあまりそう思えないのでそうしていないだけだ。

 

12-23

この間あったことを書いておきたい。

書類をデジタルデータとしてスキャンしてPCに送る、みたいな仕事をしていた。

スキャンして紙を取り出して座席に戻ろうとした。でもなんか機械から音がしていて、

おかしいな、と思って引き返して、故障かどうか見ていた。そしたら、会社の女性

から、それ、私がコピーしたものだから大丈夫だよ(故障じゃないよ)、と言われた。

私が歩いて、そのあと引き返すのを見ただけで、自分の考えていることがわかっている

みたいで、そういうことに気づけるなんて、すごいなあと思った。

ルックスは自分の好みでもないのに、それから意識するようになってしまった。

恋愛は親子関係のやり直しみたいなことも言われるけど、このことが

すごく印象的なことに感じられたのは、私の親がそういう小さなことに気づく

感性みたいなものがほとんどなかったからなのだろうと思うが、

それはほんとに平凡な、ありきたりなことなのだった。

 

12-09

仕事についてのつらいことや不満はいろいろある。ただ辞めていろんなことが

解決するわけでもないだろうと思うのでいまはまだ続けているということ。

働くためには、自意識をなるべく減らそうとするとか、プライドにこだわらない

ようにするとか、そういうことも必要になるのだなとわかった。

だから仏教的な価値観に近づいていく感じだけど、いろんなことにこだわらない

ということは、生きていてもたいしたことはないという価値観と紙一重なのかも

しれないという疑問もある。若い頃にくらべて調子の悪い時をやりすごすのが

上手くなったのは確かだが、燃えるものとか、狂気みたいなものが自分のなかに

ずいぶんなくなってしまったような感じがする。